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最終話

2年近くも放置してしまいましたが。
終わりもきちんと書いた方がいいかと思い、書いておきます。

2012年頃から、彼(あえて彼と書かせてください)はとあるSNSにはまりだした。
確かにカンボジアでも今はネットがかなり普及しているから彼のきょうだい含め、様々な人と日本にいながらにして交流できることは面白かったのだろう。
なぜか互いにジム通いにはまっていた弟とはどれだけ鍛えられたか写真を送りあってその成果を自慢しあっていた。
でも翌2013年からそれがだんだんおかしい方向に進みだした。
彼は知らないカンボジア女性に見境なく友達申請を送るようになった。
そして友達になるとその女の子たちにチャット機能を使ってメッセージを送るようになった。
特定の子とは3ヶ月以上続いていて毎日連絡を取っていたしネットで電話までしていた。
正直、何でそんなことをしているのか分からなかったし、気持ち悪いからやめてほしかった。
でもやめてと言っても聞いてくれなかったし、業を煮やしたわたしは直接その子に英語で彼は結婚していること、こんなことはやめてほしいことをメッセージを送って伝えた。
すぐに彼に知れて怒ってはいたが幸いその子は悪気はなかったらしく、それから向こうから連絡が来ることはほぼなくなった。
でも。
彼は勝手なことをしたわたしへと復讐だとはっきり宣言した上で、さらに大量のカンボジア女性に友達申請を送りつけ始めた。
もう意味が分からなかった。
ただ、そこまで親しくなることはなく彼が一人で踊っているだけ、という感じだった。
状況は春に一変した。
彼のお姉さんがかなり年上の人と再婚することに決まった。
その連れ子に20歳少し前の女の子がいた。
自分のことはかなり棚に上げているが、どう見てもかなり太っていて美人といえるような子ではなかった。
その再婚相手はかなりのお金持ちらしく、その子は学校に行っている訳でもなければ働いているわけでもなく、毎日親のお金で遊んでいて、暇だった。
そんな彼女のSNSにはどこへ行っただとか何を食べたとかいう日常がアップされていた。
彼はその子と連絡を取り始めた。
朝のおはようから夜のお休みまで、毎日メッセージは10往復以上は必ず、多いときは30往復はあった。
その頃にはわたしは彼のパスワードを知っていて、すべて筒抜けだった。
6月に「もうやめて」と彼に伝えた。そしてスマホを取り上げようとしたら暴力を振るわれた。
それからも彼とその子はずっと続いていた。
一度彼女に電話したことがある。そのときはやめると言っていたが電話したことはすぐに彼に伝わり、彼の言い分は「朝早くから電話してきたせいでゆっくり彼女が寝れなかったと言っている。謝罪の電話をかけろ」だった。
もちろんそんな電話はかけなかったがもう彼が何を言っているのか分からなかった。
彼はこうも言った。
わたしのような女は自分が捨てたらもう再婚できるはずはない、それに比べて自分はまた簡単に恋人でも何でも作れると。
彼女のことは好きでもなんでもないが、連絡を取るのは絶対にやめないと言っていた。

そのまま秋になった頃、以前から相談していた母親に言われた。
「もう離婚したら?」
でもわたしはそれをまさかと言って否定した。そんな考え浮かんだこともなかった。
離婚する気のないわたしのために家族も心を砕いてくれた。
もうその子と連絡を取るのはやめてほしいとわたしのために彼に頭を下げてくれた。
「分かりました」と確かに彼は言った。もう連絡を取るのはやめると。
でもそれから家に帰ったらまた彼はメッセージを送っていた。

家にわたしがいるので彼は仕事が終わっても夜中まで帰ってこなくなっていた。
11月のある日、わたしはふっと気づいてしまった。
わたしが彼に対してもう何の感情も抱けなくなっていると。
彼を信頼する気なんてとうに失せていたし、好きだとかそういう気持ちももうなかった。全部が涸れていた。

そして12月。
彼はとうとうカンボジアに行くと言い出した。
それを聞いたわたしの父親が行くなら離婚して行け、と彼に言った。
昔からよく物を落とす彼のパスポートはわたしが預かっていたのだが、それを出すように言ってきた彼に対し、離婚届を書いたら渡す、と言った。
彼はいとも簡単に離婚届をもらってきてそれを書いた。
明らかにそれは彼にとっては脅しだった。自分は離婚してもまったく構わないんだ、と。
約束どおりわたしはパスポートを渡した。
確かにそのときまではわたしは迷っていた。本当に離婚したとして、仕事も短時間のパートだったし、このままやっていけるのだろうかと。
でも彼は出国当日の早朝、わたしの財布から彼名義の生活費用の共同口座のキャッシュカードを盗み、20万円を勝手に引き出して出国していた。
財布からカードがなくなっていたことにその日の昼には気づいた。
通帳記入をしてお金がなくなっていることも。
悔しくて涙が出た。
わたしはどこまで舐められているんだろうと思った。
でも客観的に見れば彼が自分の口座からお金を下ろしただけだ。犯罪でもなんでもない。
そのとき、もう他人になろうと決心できた。
書いてあった離婚届を提出した。
5回目の結婚記念日の4日前だった。

それからは早かった。
離婚届を出したことを両親に報告したところ「よくやった」と言われた。
そして彼が帰ってくる前にアパートのわたしの荷物をすべて引き払った。
そうはいってもわたしはほとんど見ていただけで荷物の運び出しとかはほとんど家族がやってくれた。
よくわからないけどとにかく疲れていた。

彼はその後ほとんど何もなくなった部屋に戻ってきた。
部屋はわたしの名義だったから1ヶ月以内に出て行くように伝えた。
そしたら自力で名古屋市内にアパートを見つけてきてそこに引っ越すことにしたと言ってきた。

まさかわたしが本当に離婚届を出すなんて最後まで信じてなかった。
2014年の春にわざわざ役所まで出向き、離婚届が本当に出されているのか確認に来ていて、役所からわたしに電話が入ったくらいに。

なぜかまたほとぼりが冷めればわたしが戻ってくると最後まで彼は思っていた。だからメールも電話もしょっちゅう入った。ほとんど無視した。

そしてわたしは。
離婚後半年くらいで別の人と付き合い始めた。
もちろん日本人だ。
かなり早かったのだが交際数ヶ月で入籍した。
また捨てられるかもしれないとどこかで怯えていたことに夫が気づいていたのかはわからないけど、わたしがいらない人間じゃなかったと思えた。いていい場所を見つけられて安心できた。
夫には本当に感謝している。

再婚したことを伝え、もう連絡してこないように言ったとき、彼は最初信じてなかった。今までの遊びに行ったときの写真なんかをたくさんメールで送ってきて、全部忘れてしまったのかと問いかけてきた。
忘れてなんかない。でももう戻れないのだと説明した。それから彼を着信拒否したのでもう連絡が来ることもない。

今ならわかる。彼は一緒に生きていくにはあまりに子どもで、自分のことしか考えていなかった。
でもあのときはそんなこと見えてなかった。
わたしの国際結婚は結果的に失敗に終わってしまったけどそれは文化とか国籍のせいじゃない。
ただ相手への信頼が崩れたからだけだ。

クメールなダンナがいなくなったのでこのブログの更新はこれで最後にします。
何年も経ったけれど、読んでくれてありがとうございました。
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4年ぶりのカンボジア

4年ぶりにカンボジアに行った話も今回で締めたいと思います。

滞在最終日の前夜、ワッタイ、ラチャナ、上の弟の奥さん、ダンナ、トゥクトゥクのバーンさんとわたしでキョンギュウ遊園地に行った。
行く前にラッキーバーガーで食事をしてキョンギュウに向かった。
周辺の道はかなり混雑していて露店もたくさん出ていた。服やぬいぐるみ、食べ物を売っている店が多かった。

早速ワッタイとラチャナを遊ばせようと思ったがダンナがたくさん並べてある小さい風船を針のついた羽根で割った数に応じて景品がもらえるカンボジアではよくあるゲームを見つけた。
「やりたい」
その景品が缶ビールだと知るとダンナが飛びついた。
じゃあ早くやれと待っていると無事缶ビールを当てて戻ってきた。
このビールは実際に買えばいくらで自分はいくらで当てたから元が取れたと喜んでいる。…子どもそっちのけで何しに来たんだよ。

そのビールをバーンさんと飲みながらワッタイとラチャナに何で遊びたいか訊くとミニチュアの車を運転したいとのこと。
今カンボジアの子どもになぜか流行しているらしいアングリーバードがついている車だ。ライトがピカピカ点灯して見た目からも子どもが好きそうな感じ。
日本だと100円で数分動いて止まるんだろうけどカンボジアでは係りの人にお金を払うと(確か1人2000リエルくらい)満足いくまで乗り続けられる。結構すごい。
囲ってある中を縦横無尽に歓声を上げて2人が乗り回している。当分終わりそうにもないので係りの人が用意してくれた椅子に座った。
当たり前なのだが夜にキョンギュウの周辺だけきらびやかにライトを使用しているわけで、集まってくる虫の数はハンパない。
がっちり虫除けスプレーでガード。
しばらく経って2人が戻ってきた。他のにも乗るかと思ったのだがダンナが「もう帰る」と言うので帰ることになった。
単にさっき当てた缶ビールがなくなったからだ。

帰りに欲しがったヘリウムで浮いているこれまたアングリーバードのイラストのついたバルーンを買った。
翌日にはラチャナのは自分で割ってしまい、ワッタイのは手を離して少し飛んでったところをもう1回つかまえる遊びをしていたところつかみ損ねて飛んでってしまった。

日本に帰ってきたら出国前より涼しくなっていた。
カンボジアが暑すぎて代謝がおかしくなってしまったのか日がさしているところを歩くと暑くもないのに汗をかいて体が冷えてしまった。
次にカンボジアに行くのはいつなんだろう。

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genre : 海外情報

4年ぶりのカンボジア⑤

マオさんと会った翌日、買い物をしたのだが久しぶりに来たプノンペンは大型ショッピングセンターが増えていた。
泊まっていたゲストハウスの近くにもまだ新しいショッピングセンターがあり、そこのラッキーバーガーで朝食をとった。

日本のハンバーガー店ではありえないのだが、ここは「豚肉とご飯のセット」などのご飯メニューもある。そして日本とまったく違うのがハンバーガーが高級食なこと。
注文すると番号札を渡されて席まで持ってきてくれる。
それはいいのだが以前に初めて食べに来たとき、食べ終わったあとに日本と同じ感覚でトレーを片付けたらくすくす笑われた。何事かと思ったらカンボジアでは片付けないで帰るのが常識らしい。
…なぜハンバーガーごときが。

そのあとオリンピックマーケット、お気に入りのトゥールトンポンマーケット(ここは衣類とお土産が多く、セントラルマーケットより怪しげな感じがするのが好き。…別に怪しくないけど)などを回った。このあたりの雑多な感じは4年前と変わっていなかった。

今回のカンボジア滞在中、よくあったのだがダンナがクメール人から「外国人」だと間違われて現地の人からぼったくり価格を提示されていた。
もちろんクメール語で値切れば『クマエ(クメール人)!』と言われ通常価格に戻る。
確かにこの4年の日本暮らしでダンナは(多少)色白になった。もちろん日本人がみたら鼻で笑うレベルだが親戚には『白くなった』ともてはやされていた。
なんとなく思ったのだが日本にいるときとカンボジアにいるときではダンナの顔つきが違うような気がした。カンボジアにいるときはエスニックというか目が吊り上がったような顔つきなのだが(現にカンボジアでダンナの顔をまじまじと見たとき「あ、外人がおる」と本能的に思った)日本ではそれがやわらかい感じになる。なんでだろう。
日本から持ってきた服を着ていたこともそれに拍車をかけたのかもしれない。
今まではダンナに値切らせれば安く買えてたけどだんだんそれも怪しくなってきた。

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genre : 海外情報

4年ぶりのカンボジア④

滞在中、一度だけ買い物目的でシェムリアップを離れて、プノンペンに行った。
昼出発のバスに乗ったのだが、ダンナが以前名古屋大学に留学していたときに一緒に遊んだりした友人のマオさんがプノンペンに住んでいることを思い出し、連絡を取ってみたところ晩ご飯を一緒に食べようということになった。
このマオさんは日本で会ったときは、30代にして留学生だったのとカンボジアから持ってきたに違いないというような服を着ていたこと(カンボジアからの留学生は大体お金持ちの家の子なので身だしなみにも気をつかう人が多い)、みんなで遊びに行ったときに自分でむいてきた柿を持参してみんなに振舞っていたこと(日本だったらおばちゃんの所業だ)から、ちょっと変わった人だ、と思っていたのだが帰国前にダンナと住んでいた学生寮を訪ねたところ、大学院の医学部の修了証が置いてあって頭いい人だったんだ、とびっくりした(失礼)思い出がある。

プノンペンはバイクもさることながら車の台数も結構増えていてそこかしこで渋滞が起きていた。
待ち合わせ場所までトゥクトゥクで行くとマオさんはカンボジアの定番、ピカピカのカムリで来ていた。
『久しぶり!』
まずは握手。
車はエアコンが効いていてとても快適だ。
『奥さんは俺のこと覚えてるって?』
マオさんが訊いた。もちろん覚えてますよ。(柿が印象的だったのだがそのことは黙っていた)
とりあえずマオさんのお店(薬屋をしている)が8時まで営業なので8時まで自宅で待ってほしいと言われ、マオさんの家へ案内された。
最近多くなっているお店兼自宅の建売住宅風隣と棟続きのレンガの家だ。
中には奥さんや弟妹、両親が同居していた。
まだ小さい赤ちゃんもハンモックで寝かされていた。
そこで30分くらい話していた後、ご飯を食べに行くことになった。

連れて行ってもらったのはバーベキューレストランだった。地元の人でかなり混み合っている。
肉が嫌いなわたしは笑顔でエビを食べまくった。
なかなかおいしい。
途中でマオさんの友達も合流してダンナはビールを飲みまくった。
そうしてお腹いっぱいになったところでゲストハウスまで送ってもらった。
日本人らしくレストランの代金は割り勘にしようと言ったのだが『おごるよ』と言われて受け取ってもらえなかった。
日本で知り合ったクメール人にカンボジアで再会したのは初めてだったので楽しかった。

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4年ぶりのカンボジア③

今まで、ダンナの家族にクメール語がほとんどわからないふりをしていた。
実際もほとんどわからないのだが、家族に対しては「ニャム(食べる)」「オッテー(いいえ)」「タウ(行く)」「テン(買う)」「オークン(ありがとう)」くらいしか本当に話してこなかった。
さすがに2年住んでたのにこれはありえないのだが話せなければ何かあったときにダンナを介して話してくるので面倒なことにはならないだろうと思ってそうしてきた。
(例えば一応嫁の立場なのでいびられたりしたら嫌だし。洗濯板での洗濯なんてまともにできないし、火を起こしてご飯も炊けない。いびられる要素は満載だ)
今まではそれで何とかなっていたが今回始めて問題が起きた。

亡くなった弟の娘さんのラチャナは、オソロシク人懐っこい子だった。
今までもよく登場しているお姉さんの子どものワッタイとは違い、がんがん話しかけてくる。
しかもまだ4歳になったばかりなので、わたしが外国人であり、クメール語が話せないということは理解できてない。きっとこの世にクメール語がわからない人間がいるなんて想像したこともないんだろう。
ワッタイに日本から持ってきたおみやげのカバンを渡したとき、最初に話しかけられた。
『わたしの分は?』
…考えてなかった。赤ちゃんのときに会って以来なのでそこまで頭が回ってなかった。
いつもならダンナを呼んで伝えてもらうところだが久々の再会に浮き足立っているダンナはこちらを見る気配もない。
自分で言うしかない。
「ソムトー、オッミエン。タウ プサー テン アオイ オーン ネッ(ごめん、ないんだ。市場に行って買ってあげるね)」
これを聞いた家族が目を丸くした。
『クメール語を喋った!』
…まあいいか。

そのあとはもう気にしないことにした。

家族が細かいお金の持ち合わせがなかったので1000リエル持ってないかわたしに訊くようにダンナに言ってるのがわかったのでダンナが何か言う前に持っていた1000リエルを出しただけでもびっくりしていた。

ダンナとその妹と市場に日本に持って帰る味の素とかを大量買いした帰り、買い物に来てくれたお礼に妹にシャンプーを買ってあげることになったときも『あなたは買わないの?』と訊かれ、「クニョム ミエン ハウイ(もうあるから)」と返したところ市場の人にも驚かれた。

滞在の終盤ではお金を使い果たしたダンナに借金を申し込まれるが断ったところ、わたしがケチだと家族に言ってやる的な脅しをかけられたが先手を取って「テン スラー チュラウン、ルイ オッハウイ、チュクオット ナ!クニョム オッ アオイ テー!(お酒をいっぱい買ってお金がなくなるなんてバカだ、わたしはあげないよ!)」と家族に聞こえるように言ったところ逆にダンナが家族の失笑を買っていた。

ラチャナは本当に人懐っこくて元気でいい子だった。わたしもまだ子どもはいないけどこんな子がいたらいいなあ、と思うくらいに。
同時にそんな子を遺して逝ってしまった弟は本当に気の毒だと思った。

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プロフィール

いつき

  • Author:いつき
  • 訪問ありがとうございます。
    彼に会うまでは絶対にありえないと思った国際恋愛。
    どうしてこんなことになったのか・・・。

    写真、入れてみました。
    恥ずかしいのでぼかし気味。
    下で手を広げているのが彼です。


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